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Kanno署名のIPユーザー氏とのやりとり4[編集]

長いのでここに新たに作りました。BBS形式なのだともっとやりやすいのですが、ここに提案しておきます。

「事実確認と正確さについて定評のある、信用できる第三者情報」ということは文献ですか、それとも他人によるチェックも入るのですか?でもここのWikipediaでは匿名が原則ですから其の検証可能性はないですね。と言う事は出版物しかないわけですが、その信用できる第三者情報の書物といえどもかなりのミスや偏りがたくさんあるのですが、これでは話が振り出しに戻るので止めます。

会話は検証難しいですね。第三者が当人に会って真偽を正さなくてはならない。まあこういうのは政治の「失言」等ではよくやりますが、現代音楽ではそういう予算を組む人はほとんどいないですね。私はそういう検証は無理に当人に押しかけないで放送などで同一テーマなどで偶然知る事ができた物についてだけやっています。でも彼が全くでたらめに書へるかということは未だに疑問です。

「定義が通説として定まっていないことがらについて、あたかも定まっているかのように書くことも困るのです。」については特に反対しません。具体的には「東音パルス学派」ですか?などです。でも「芸大アカデミズム」については反対したいです。ちなみに「芸大の悪口」と書いた人がいますが、ここには芸大出身者はおられますか?確かにあの傾向はあったのは確かですが、例えば80年代はその名前がなかった。だからあそこで「“芸大”」が嫌ならば「日本」とか「マイコン」とか「文部省」とかいろいろ提案したわけです。武生世代(秋吉台世代も?)は正直言ってここまでやるべきがどうかびっくりしました。詳しい方が良いという意味では賛成です、世間に定着していないという事では反対です。ただ「ポスト・セリエル」などの有名な言葉でも一般世間に定着していないのは確かです。何を持って定着・定着してないというのかガイドラインが欲しいところです。定着してなくともれっきとした専門用語ならば書くべきです。そこでここの管理部門の専門性が問題になりました。ここの管理人は誰だか知りませんが、日本語版全部を管理しているのですか、それとも音楽部門だけですか、クラシック音楽だけですか、一番良いのは現代音楽専門の管理人がいると非常にこういう事を良くわかってもらえるのですが!

ニュー・ロシア・アヴァンギャルドになるとさすがにわからない。あるようでない、ないようであるというところですか?そもそも単に「学派」と言うけれどもそれに属する作曲家は否定する方が多いです。でも一括して評論界などでそう語った方がまとめやすいし理解しやすいので一般にそういわれるのです。MozartやBeethovenにあなたはウィーン古典派ですかと聞いたならば聞いたことがないので大方否定するかもしれません。

「単行本、雑誌記事、出版譜の序文や解説、学会発表、音楽会のブックレット、録音のブックレットなどいくらでも媒体はあるでしょうし、そういうところに情報が全然ないのなら、いったい専門家の皆様は日々なにをしてらっしゃるのだろうと疑問に思います。」は残念ながら極めて初歩的な見解ですね。其の何れもが誤りも多いし幼稚・原始的すぎてほとんど使えないです。せいぜい作曲年代と題名ぐらいでしょうか?「対斜」や「セリエル音楽」もわからない日本の理学部出身の音楽評論家が書いた現代音楽のライナー・ノートなど誰が信用しますか?残念ながら現実はそうなっています。海外でも例えば「新ロマン主義」は当時極度に高名な音楽学者や評論家によって使われましたが現在はもう死語です。日本の「新ロマン主義」を自ら作った西村朗がこの用語を否定した「音楽芸術」1987年9月号を、ラッヘンマンの前でクンス・シムと即席で共同訳したら彼も当時肯定してました。これ自身は検証の可能性はシムに直接聞くしかないです。作曲者自身の解説も参考程度ですが、主観が多いので其のままでは使えません。作曲者自身もわかってない事が多いですが!ここが自然科学と全く違うところです。この前も書きましたが、この世界は昨日の駄作が今日の傑作、昨日の非音楽が今日の正音楽なのです。音楽は実際存在するのですが。影のようにつかみ切ることが出来ません。学会発表は音楽学者の仕事となっていますが、余りにも現代音楽は難解なのでどこでも専攻生がほとんどいません。更に高名な学者といえどもミス=正論があります。ハンスリック(Bruckner)やアドルノ(Sibelius)らはそういう例です。何人も其の音楽について100%正しい事はいえないのです。Bachは500年後滅亡するかもしれませんし、ジェズアルドやフォン・ビンゲンは昔は音友の「名曲解説全集」にも載っていませんでしたが、ヨーロッパでは近年価値観がようやく増して来ています。中世やバロックがそうなのですから現代音楽は桁違いに混乱する事は自明の論理です。例えば「ミュージック・セリエル」は結局挫折したようですが、生きていてどこまでこの用語が生き続けるかは誰もわかりません。ただ日本を除く欧米の音大で専攻生以外にも教えているので書いて置きました。「芸大アカデミズム」の辞書には昔からこの項目「ミュージック・セリエル」は否定ばかりしてきちんと教えていないのです。要するに日本の偏った現代音楽の知識のバランスを保つ為に必要なのですとだけ言って置きましょう。とにかく現代音楽については何でも「一概に言えない」のです。--195.93.60.1 2006年12月24日 (日) 23:38 (UTC)

ウィキペディアで「信頼できる情報源」としているのは、紙媒体の出版物だけではありません。それは現在の学問世界でもそうですし、ウィキペディアでも基本的には国際的な学問世界の水準を基準にしていると考えれば間違いはないと思います。オンライン出版物をどのように利用するかという慣例もだいたい定まっていますし、会話やインタビューなどオーラルなやり取りや書簡を文献として利用する方法も人文系の学問では慣習が定まっていますので、そういう習慣に則っていれば、受け入れられる場合もあるでしょう。何度も言いますが、Noda,Kentaro氏のスタイルのように、「僕が聞いたからそうなんだ」とごり押しするだけでは困る、といっているのです。
ウィキペディア日本語版には他の利用者にない、記事をサーバーから削除したり、他の利用者にブロックを実施できる権限を持つ「管理者」という位置づけの人々はいますが、専門の担当分野が定まっていたりはしません。ただ、それぞれの得意分野で活躍なさるということはあるでしょう。それでも、Noda,Kentaro氏の問題点は、現代音楽の分野の特殊性を鑑みて許すべきであると考える管理者の方はたぶんいないと思いますよ。何度も言うように、彼の問題点は、投稿する内容そのものもさることながら、他の利用者を尊重できない、他者と共同で作業をしていくことができない、という点なのです。その点を理解していただければと思います。
用語が定着しているかどうかですが、一般世間に定着しているべきとは誰も言っていません。繰り返しになりますが、「事実確認と正確さについて定評のある、信用できる第三者情報」として公表されていればいいのですから、音楽界で一定の権威を認められている出版社からの単行本や辞書、専門雑誌に記載されていたり、一定の権威を認められている学会で発表されていたりすれば十分です。「出典」を求めているのは、どの本のどこをみれば、どの雑誌のどの号をみれば、どの学会のどのプロシーディングスをみれば、誰のどのインタビューを参照すれば、その情報が載っていますか?と聞いているだけで、一般世間でどれだけ知られているかなどということを問題にした人は一人もいないと思います。
あと「MozartやBeethovenにあなたはウィーン古典派ですかと聞いたならば…」というのは無関係です。本人の意向を尊重しろとは誰も言っていません。学史の上で「ウィーン古典派」という概念が提唱されており、その概念がどのような意味範囲を持っているか、どのように用いられてきているか、ということが検証できればよいのです。「東音パルス楽派」にせよ、「芸大アカデミズム」にせよ、Noda,Kentaro氏に対して要求されていたのは、今までに誰がその用語を用いており、その人物はどのようにその用語を定義しているのかを示してほしいということであって、「東音パルス楽派」に定義されている人物はその楽派を自認しているのか?なんてことは誰も聞いていません。それらの質問に対して、Noda,Kentaro氏が信頼できる出典をまったく示すことができなかったがために、削除されたのです。
「其の何れもが誤りも多いし幼稚・原始的すぎてほとんど使えないです」については、また論点をずらしていらっしゃいます。もし本当にそうであり、あなたが音楽の専門家を自認なさるのであるならば、あなたがまずするべきことは、ウィキペディアに投稿することではなく、「事実確認と正確さについて定評のある、信用できる情報」として「単行本、雑誌記事、出版譜の序文や解説、学会発表、音楽会のブックレット、録音のブックレットなど」でその誤りの訂正やご研究を発表することですよ、と言っているのです。言い換えれば、「信頼できる第三者情報」なしにウィキペディアに書き込もうとするのではなく、まず「信頼できる第三者情報」を準備してください、ということです。--Aotake 2006年12月25日 (月) 05:13 (UTC)

『「其の何れもが誤りも多いし幼稚・原始的すぎてほとんど使えないです」については、また論点をずらしていらっしゃいます』は論点をずらしてはいません。または極度に資料が少なすぎて使えないといっても良いでしょう。自分では金がかかりすぎるし全く売れないので出版は考えていません。砕けた幼稚な書き方ほど売れるし真面目で専門的なほど売れません。これは資本主義ではどこでも常識ですね。それを出典としてまたWikipediaに書いたらそれこそあなた方の嫌う独自の研究ではないですか?いずれにせよ出版は金だけではなくて公正・印刷・製本などで時間がかかりすぎます。出版できた暁には最初の草稿から10年は軽くたっているのです。さらに個人で書いた物はどんな物でも主観性が必ず入っています。それよりもインターネットの利点を最大限に活用した方が早いし、安上がりだ、し誰でもすぐ見れるし、第三者のチェックがすぐ入るのだから使わない方が愚かです。更にそれは本来音楽学者の仕事であり作曲家の仕事ではありません。だから音楽学者といえども出版には躊躇するのでしょう。彼らがここに書かない事は残念です。更にどんなに信頼できる第三者でも誤りがあります。神のように完璧な人間は地上には絶対存在しません。

論理的でなくて恐縮かもしれないけれど、ほとんどどんな口頭的なもしくは出版的な記述も現代音楽においては実は正しいのです。残念ながら!例えば「クライマックス」の現代音楽における概念を話しましょう。普通は曲の後半の十数分間が一般的です。事実日本の保守的な「芸大アカデミズム」ではそう教えるかもしれません。しかしウーリッヒ・ズーセはどこにあっても良いと教えていますし、ラッヘンマンは前衛的に曲全体がクライマックスだといって長らく知り合いの北海道の音楽学者と手紙で喧嘩していた模様です。まあ彼の理論が権威的に現在のダルムシュタット理論の中核を占めているのですが、別にクラウス・フーバーは「現代音楽にクライマックスは存在しない」と言っています。結局最後の言い方が一番わかりやすいのですが、前二者が間違っていると言う保証はありません。十人十色なのです。すべて出典はありません。話して聞いただけです。彼らは作曲家なので普通は著書は書きません。音楽学者が彼らについて書いた書物はありますが、そこに触れた部分は見たことは未だに見ていません。こういうことはまだまだ無数にあります。アイヴスの間違った楽譜は本人が手紙で書いた通りにすべて正しいのです。これは前にその部分ではありませんが誰かがWikipediaに出典しましたね。もうあの本自身が古いし特に誤りはありませんが後書きにあるようにバランス的に偏っています。このように間違った理論までしばしば正しくなるのが現代音楽の世界です。これを必ず飲み込んでくれないとこれ以上の話は無駄です。

また、誰かがカルコシュカの記述の部分において、「彼の奥さんは中国人」書いた部分についてやたらと批判していました。私の見解はもう書いてしまったのですが、当人が何系の人かはすぐに丸見えです。普通の日本人はこれだけは絶対書かない文句です。それは余談ではなくてだからこそ彼は現在中国に定期的に呼ばれて講義ができるようになったわけです。中国との特別な関係を強調したかったわけです。むろん外国人が日本語版の管理人をやってはならないと言う規則はないのですが、日本語は完璧なのは当然、できれば其の俗語や隠語・方言まで知ってないと(加えては専門的哲学的知識!)、今回のような問題はただでは片付かないのです。特に管理人関係の方はこういう問題の処理が主な仕事です。普通は極めて異常で不自然ですのであくまでも円満に皆が納得できるような解決法が理想でしょう。まだ御不満な人は「ラッヘンマンの奥さんは日本人」という項も付け加えてもいいですよ。またあの審議に参加した15人全員がどうも現代音楽の専門家以外のようですが、もしそうでなかったならばすぐに言ってください。お詫びいたします。しかしその極専門的な項目の真偽を専門外の15人が決めてしまうとは、常識的に「極めて不自然」だと普通は思われませんか?規則だからそうでもいいのですか?誰かが納得させられたら幸いに思います。

確かに現代音楽の地域別の動向で中国の現代音楽の状況を野田君かどうか知らないけれど凄く否定的に書いた部分がありました。私はこれを良くないと見て良い事柄を相当加筆しました。彼はどのようなソースからそう書いたのかは知りませんが、私のソースは主にヨーロッパで出来た中国人作曲家や韓国人作曲家を主に参考にしました。でも日本の情報だけを元にすると犯罪が多いし彼のような表現になる可能性はあります。多分、日本にいる彼らとヨーロッパにいる彼らの落差が大きすぎるのでしょう。でもそういう場合にも日本にはきちんとバランスを取る人が常時いますので心配は要りません。ちなみにイサン・ユンの項目を始めたのも私です。孫弟子の関係ですが、実際教わった事があるし、死ぬまで何回もお会いしたので書く自身が出来たのです。不満な方は特に加筆は大歓迎です。日本人全員が必ずしも愛国主義者の一枚岩ではありません。せいぜいスポーツぐらいなものでしよう。--195.93.60.1 2006年12月25日 (月) 23:15 (UTC)

菅野さん、あなたは要するにWikipediaの各方針に従う意思があるのですか? ないのですか? もしも「現代音楽は特殊な分野だから検証可能性その他、Wikipediaの各方針は適用を除外されるべきだ」「方針そのものが間違っているから変えるべきだ」「方針は守りたくないしアカウントも取りたくないが、Wikipediaの知名度や人の多さだけは好き勝手に利用したいのだ」というご意見でしたら、それは話にならないのでお引取り願う他ないと思うのですが。--Arpeggio 2006年12月26日 (火) 07:38 (UTC)

すでに何回も書かなかったですか?原則的に従います。しかし例外として人命にかかわる場合、正式な憲法や刑法などの法律に触れる場合などでは従いません。現代音楽は許可されていないのでまだですが。でも「Wikipediaはこれで良いのかここで議論する事は規則違反に当るのですか?」と質問しましたが誰からもお答えを頂いておりません。--195.93.60.1 2006年12月26日 (火) 22:12 (UTC)

「Wikipediaはこれで良いのか」という議論はWikipedia:井戸端でやって下さい。既に利用者:Noda,Kentaro個人の問題から離れています。--Arpeggio 2006年12月27日 (水) 07:09 (UTC)

自称菅野先生。あなたがわたくしを何系の人と決め付けようが自由ですが、幸か不幸かわたくしは日本人です。余談はさておき、わたくしが申し上げたのは、「奥さんは中国人」という表現が論文の文体をなしていないといったのであって、「『奥さんは中国人』と書くな(差別的でないか)」などと横槍を入れたのではありません。たとえば一般に学術論文で口語や俗語の多用はあまり好ましいとはされませんから、たとえば、「口撃」といった通俗的なレトリック、「やっちゃった」「みたいな」といった語形(特に前者は「やる」+「しちゃう」で二重に不可)は論文で使われることは通常ありえません。私が批判したのは、「中国人」うんぬんではなく、「奥さん」という俗語のほうなのです。そのことはすでに指摘したはずですが、まだ自称菅野先生がこだわっているところからすると、実はこの手の問題に過剰に反応しているのは自称菅野先生、あなたではありませんか?どうも菅野先生にせよ、野田先生にせよ、他人が言っていない発言を言ったことにすりかえ(あるいは故意にか天然にか知りませんが他人の発言を曲解し)、その上で(はっきり言うなら妄想を根拠にして)他人を誹謗中傷する癖があるようですね。ほかにも批判すべき点はありますが、あまり書くとまた個人攻撃と注意されそうですから止めておきましょう。ただし自称菅野先生、あなたに批判的なユーザーのうち、私以外は温情派なのであって、あなたの没論理や感情的・主観的発言、話の相手や流れを無視したはぐらかし(どう考えても某人物に似てるのですが)、他人への攻撃、ウィキペディアにおけるルールやモラルの無視について、「話せば分かる」の観点からあなたを説得しようと努力しているのですから、それに対してあなたは(芸術家としてではなくて)知的人間として誠実さを示す義務があるのです。わたくし以外のユーザの皆さんは期待しておられるようですが、わたくしは今までのやり取りから見る限り、菅野先生からまともな意見や誠意を引き出すことは無理なのではないか(そしてゆくゆくは自称菅野先生も「コミュニティを疲弊させるユーザ」に認定されることになるのではないか)と絶望視しています。--間久部緑郎 2006年12月31日 (日) 14:21 (UTC)

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